自然のサイクルや星の運行と同調し月の瞑想を行いながら、潜在意識について探究しています。
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シータヒーリングでは創造主に語りかける時、「~なされなさい」と命令するような口調で話します。
これは讃美歌から来ている表現なのだそうです。

私が聖書の言葉に初めて触れたのは、ブライダルアドバイザーをしていた時のチャペル挙式でした
神父さんの読み上げる『コリント人第一の手紙13章』は、みなさまもどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか

初めて聞いた時の感動はもちろんですが、その後、何度繰り返し聞くことになっても色あせることはなく、いつも心を優しく包み愛にあふれるものでした

ふと、思いだして調べてみましたら、あの当時にはわからなかった、また別の感動が胸に響き渡りました

あぁ~そうか、そうだった、そうだよね・・・

心の震えるような衝撃の波が胸にじわじわと広がっていくのを感じ、これはぜひみなさんにも
と思いました

長文ですが、よろしければお付き合い下さいね。


たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。
しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である。
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【2010/01/31 12:43】 | ■日常
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